福徳をつかさどり、万事に吉という恵方の社 磯部神社

磯部神社は磯部町内の各氏神社を正月殿跡に移転合祀された磯部郷の惣社と称すべき神社であります。
その正月殿社の「正月」とは本来、その年の五穀豊穣を司る歳神様、日の出とともにやって来る歳神様、歳徳神をお迎えする行事を行う初めの月の事。
年の初めに五穀豊穣や福徳を司る歳徳神をお迎えし、作物の実りや氏子崇敬者の健康と幸せを運ぶ神社が磯部神社であります。

ここ磯部町は伊勢の神宮の別宮「伊雑宮」の鎮座地であり、神宮との関係が密接でした。
磯部の地名の由来は、古くから当地に居住して、長く神役公役を務めた磯部氏の名をとって地名としたであろうと言われています。井坂丹羽太郎著『志摩国旧地考』には、「度会神主氏の支族磯部氏人此宮ニ奉仕シ此地ニ居住シテt・・・云々、磯部氏伊雑神部二居住シテ神役公役雑務ニ預リシ事『伊雑宮遷宮記』・『内宮引付』及び『古文書』等二載セタル二テ著明ナリ」と著され、伊雑宮との深い結びつきをうかがい知ることが出来ます。
 したがって、郷内の40余社は、あたかも伊雑宮の摂末社のような関係を保ちつつ、伊雑宮の神人達により氏神・産土神として奉祀が続けられてきました。明治後期、全国的な神社合祀の気運の高まりに、村内の10大字の各神社を正月殿社跡地に移転合祀したのが「磯部神社」の始まりで、磯部郷の惣社と称すべき神社です。

さらに昭和30年町村合併にともない、度会郡神原村成基地区の産土神を神原神社より分祀し、同年12月9日磯部神社に奉遷合祀して現在に至っています。そのため磯部の神人は今なお正月には伊雑宮・磯部神社・佐美長神社(穂落とし神社)の順に三社詣でをする慣わしを守っています。

境内社

護国社。明治10年西南の役から先の大戦(大東亜戦争)で国家の為に尊い命を捧げられた磯部町出身571柱の御英霊をお祀りし、その事績を永く後世に伝え、顕彰する為、昭和48年、遺族を始め地元有志の熱意により創建されました。(毎年11月1日大祭を斎行)肉親・家族を顧みるすべての俗心を捨て、和やかで幸福な生活が出来る国の建設を念願し、ただ、一意御奉公を念じ、敢然として斃れていった御英霊の功績を子孫に伝え、厳粛な慰霊供養奉謝の誠を捧げる英霊顕彰祭を斎行致しております。

遙拝所

境内西の奥には神宮遙拝所と神武天皇陵遙拝所があります。御祭神「神倭磐余彦命」は神武天皇の別名であり、毎年2月11日の紀元節には盛大に祭典を奉仕し、橿原神宮で御即位された古を偲び、建国創業の御進徳を景仰致します。

令和元年天皇陛下御即位にあたり、宮城遥拝所が完成しました。
この遥拝所の石碑が平成最後の年の1月に近くの石材店から発見され、その年の5月に天皇陛下が変わられましたので、これも奇しき縁だと思われ遥拝所を作るに至りました。

勾玉池

境内西奥、神宮遙拝所の隣にある池の名は勾玉池と言い、その由来は勾玉のような形からと思われます。神社創建以前からあったものと考えられています。池の中心近くにある石は、勾玉の穴を表しています。この池は昔から水量がいつも一定で、水が枯れたという記録はありません。そのように絶えず水を豊かに湛えているところから、食物・財福を司る神である弁天さまを連想させ、無限の恵みが授かりますようにと長寿健康、豊作や子宝祈願を熱心な崇敬者が後を絶ちません。

御来光

境内地は磯部の街を見晴かす 高台にありますが、元旦は第一鳥居の真ん中からご来光を拝むことが出来ます。奇しくも当社の地名は磯部町大字恵利原字正月殿。先人は正月になると、ここに集まりご来光をお迎えしたのでしょう。